
どうも、skyです。
今日は僕がずっと大切にしている言葉について話したいと思います。それがこれです。
> 「左右極限を知らねば中道に入れず」
なかなか渋い言葉なんだけど、これめちゃくちゃ深い。
目次
貧乏も贅沢も“両方”知らないと、ホントの意味では語れない
たとえばね。
貧しい暮らしも、贅沢な暮らしも、両方味わってないと、
それぞれの良さも苦労も、本質的には分からんのですよ。
そして、その「わかってない感」は、言葉に出ます。
説得力に出ます。
つまり、影響力がまるで出ないんです。
逆に、両方を経験してる人の言葉はめちゃくちゃ刺さるんですよね。
「勝ち組と負け組」の話とも繋がる
前に話した「勝ち組・負け組」の定義、覚えてますか?
> 勝ちも負けも両方知ってるやつが最強。
あれって、まさにこの「中道」の話に直結してるんですよ。
昔の俺は“吉野家がご馳走”だった
昔、僕はけっこう貧乏だったんですよ。
吉野家の牛丼、ココイチのカレー、ファミレスのハンバーグ。
これがもう、最大の贅沢だった。
それが今では、ありがたいことにお金を出せば、
ちょっと高い店にも行けるようになった。
でもね──
たまに無性に吉野家とかココイチが恋しくなるんですよ。
あの頃の「幸せ」って、ほんと純度が高かった。
贅沢=不幸になりかねない?
僕はおいしいものが大好きで、グルメな自覚もあるけど、 舌が肥えすぎるのはちょっと怖いと思ってます。
なぜなら、日常のごはんが美味しくなくなるから。
インスタとかFacebookで「高そうなメシ」ばかり投稿してるように見えるかもだけど、実は普段は週1くらいしか行ってません(笑)
あとは基本、自炊かファミレス。筋トレしてるしね。
「贅沢だけが幸せ」になったら、幅が狭くなる
たとえば、昔付き合ってた水商売の彼女。
めちゃくちゃ舌が肥えてて、吉野家もココイチも「美味しくない」って感じる人だった。
僕からすると、それってちょっと不幸だなと思ったんですよね。
だって、自分が“かつて好きだったもの”を、美味しく感じられなくなってるって、幸せの幅がどんどん狭くなってるってことじゃないですか。
幸せは「幅」で測れ
贅沢を知ってるのも素晴らしい。
だけど、貧しかった頃の“幸せの感覚”を忘れてしまったら、人生はちょっともったいないと思うんです。
吉野家の牛丼で「うまっ」って言える自分がいるからこそ、高級料理もさらに味わえる。
幸せの基準が、1つじゃなくて、いくつもある。
それこそが中道だし、それが僕にとっての“幸せ”なんです。
まとめ:「両極を知る」ことで人生の説得力が上がる
結局、「幸せって何だろう?」って考えたときに、
> 左右極限を知ってこそ、本当の幸せのバランスが取れる
と、僕は思うわけです。
だからこそ──
貧しさも贅沢も、負けも勝ちも、全部経験してこそ“語れる人”になれる。
そしてその人の言葉には、自然と力が宿る。
ぜひ、ピンときたなら「中道」を意識してみてください。
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というわけで、今回は以上!
またね。
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